宮城野地区7月例会

“プロジェクト X ”は労使の信頼関係から生まれた
 

常磐興産(株) 社長 斎藤 一彦氏


石炭から石油へ

 
  私ども常磐興産の前身は、 常磐炭礦という会社です。 昭和19年3月、 国策によって二つの石炭会社の合併により設立されました。
  以後、 戦後期に至るまで石炭が日本経済を支えた時代、 石炭が“黒いダイヤ”と呼ばれた時代がありました。 戦後の日本経済の復興には、 きわめて貢献をしたわけでありますが、 昭和30年代に入るとエネルギー革命の中、 石油の時代へと変わっていったのです。 当時は福島県の県南のいわき、 茨城県の北部にまたがり炭坑を経営しておりました。 全盛期には1万5千人の社員がおり、 家族を含めると約7万人の地域コミュニティを形成していたのです。 昭和30年代の半ばぐらいから、 石炭産業が全国的にかなり厳しい局面を向かえました。 本州最大の炭坑であった常磐炭礦も、 時代の波に抗しきれなかったばかりか、 会社存亡の危機にまで事態は急変していたのです。 しかし、 炭坑を閉山しますと、 まさにコミュニティが壊滅するという状況です。 明治以来100年にわたってこの地で石炭を採掘させて頂いていたわけですから、 地域との絆は大変に強いものがあったのです。

東北に“ハワイ”を

 常磐炭礦は、 石炭を1トン掘るのに40トンの温泉を汲み上げなければならないという悪条件にある炭坑でした。 この炭坑の負の資産であった温泉を何とか利益を生み出せるものにしたいと考えていたのです。 それは、 常磐炭礦存続のためであり、 そのためには新たな事業を興し、 合理化と同時に雇用の確保を図らなければなりません。
  経営陣は、 国内はもちろん世界各地の炭坑と観光産業の視察をしたのです。 ハワイに立ち寄った時に, 踊りと音楽が日本古来の民俗芸能と相通ずるものがあり、 「これだ」 というヒラメキがあったようであります。 大量湧出する温泉を利用して 「東北にハワイを造ろう」 という青写真を描きました。 これが常磐ハワイアンセンターの発端であります。

会社存亡の危機を乗り切った精神

 ハワイアンセンターの設立計画を指導した中村豊が、 常々言っていたことが3つあります。 「他人の真似はするな、 自分たちの力でやれ、 地域と共に歩め」。 この精神は、 現在も守り継がれています。
  施設の設計から施工は、 40社ほどあった関連会社が自前で行い、 順調に進んでいました。 炭坑では“一山一家”、 山 (炭坑) で働く者はみんな一家 (家族) である、 つまり運命共同体であるというように、 きわめて絆が強く、 特殊な企業風土がありました。 ほとんどの社員が祖父や父親の代から勤める2代目、 3代目です。 ですから、 いざ断崖絶壁に立った時にはものすごく強いんです。 端的に言いますと、 お父さんがホテルマンで、 お母さんは厨房で皿洗いをし、 娘さんは調理師やフラダンスのダンサーであるというような配置が随所にありまして、 新規事業の立ち上げに必要とされるきわめて強い体制が自然に作られていたのです。

日本初の温泉テーマパークの誕生

 ついに昭和41年1月16日、 常磐ハワイアンセンターがオープンしました。 サービス面や接客では、 今思い返しますと背中から冷や汗が出る思いでございまして、 大変なスタートでありました。 数ヶ月間の訓練と勉強だけでスタートしたのですから。 しかし当時は、 お客様からのクレームはほとんどなかったのです。 それは何故か、 額から流れる汗です。 接客やサービスが行き届いていなくとも、 一所懸命やろうとするその姿に、 本当は苦情や文句も言いたかったのでしょうが、 炭坑の皆さんがこうやって必死にやっている、 その姿に感動してお許しいただいたのでしょう。
  しかし私にも、 もうダメかと思った時期があります。 どれぐらい厳しかったのかと申しますと、 社員は 「社長、 外に向かってあまり言ってくれるな」 と言うのですが、 事実は事実としてお話しします。 まず、 館内温度は28度の常夏のハワイと謳っているわけですが、 省エネで絞りすぎると、 お客様から 「常夏のハワイじゃなくて, アラスカセンターじゃないの」 と、 こういう時代もありました。 それから, ホテルの客室は大体、 畳が主体なのです。 畳の表替えというのは普通、 全部一緒にやりますよね。 でも、 費用がないものですから, 一畳一畳チェックして 「これはまだ大丈夫、 これはもうダメだなぁ」 と。 ですから、 部屋の畳がまだら模様になってしまうのです。 それでも、 何とか歯を食いしばりながら頑張ったわけであります。

新しいテーマパーク像への挑戦

 平成2年、 常磐自動車道がいわきまで開通しました。 それに合わせて、 約70億円を投資して、 水着を着て入れる温泉施設“スプリングパーク”を造り、 また、 “常磐ハワイアンセンター”という名称から“スパリゾートハワイアンズ”としました。 「ハワイ」 だけではなく、 「スパ」 温泉をテーマに加えたのです。 そして、 日本一の大露天風呂“江戸情話与市”を造りました。
  ですが、 バブル期にいわゆる高級路線は歩みませんでした。 それは、 常磐ハワイアンセンター創業の基本的な考え方である 「勤労大衆に健全な娯楽を提供する」 というのがコンセプトであったためです。 そのテーマをハワイに求めたということだけですし、 現在まで変わっていません。

“コスト”とは?

 フラダンスはオープン以来40年間、 一度も、 1日も休まずにやり続けています。 1日に2回の公演。 このフラダンスを維持する費用は、 年間約3億円です。 ハワイからダンサーを連れてくれば1億円で済むでしょう。 2億円のコストダウンを図れます。 しかしそれでは、 我々の心がお客様に伝わらないのです。 会社存亡の危機を救おうと、 炭坑の娘たちが額から流れる汗をぬぐおうともせずにフラダンスを踊り、 お客様に感動を与えた。 これは、 その事情を知らない部外者ではできないものなのです。 自分たちが死ぬか生きるか、 いや生きねばならない、 そういう時の必死の思いが流させた汗がお客様に感動を与え、 その精神が40年間続いてきたのです。 これは, ノウハウというような簡単に真似されるものではなく、 40年間コツコツと積み上げてきたものなのです。
  昭和40年4月、 常磐音楽舞踊学院という学校を設立しました。 フラダンスと音楽を教える各種学校ですが、 女性の自立をめざし、 それを支える教養を身につけるための学校です。 ここで2年間、 給料をもらいながら練習をして舞台に上がるわけです。 これは, やはりお客様に与える感動が違うと思います。

40年の歴史から学ぶべきこと
 
  企業というものはやはり、 地域と共に歩むということです。 地域に支えられていなければ、 リピート客を一定に保つことはできません。 私どものリピート客の割合は約85%です。
  人真似をしない、 どこかでやってうまくいったからそれを持ってくる。 これでは成功しません。
  自分の力でやる。 どういう商売にも同じことが言えるのでしょうが、 コンセプトだけでは飯は食えません。 でも、 どんな事業もコンセプトがないと維持はできないのです。
  この3つを今も頑なに私は守っておりまして, 私が社長である限りはこの基本方針は変えないつもりであります。
  私はあの断崖絶壁の中で、 生きるか死ぬか、 運命共同体的に仲間と共に生きてきた時代、 その一点で頑張った一日一日を地道にコツコツと積み上げて参りました。 まあ、 いつの間にか40年経過したとこういう事であります。 これから、 1,000万人ともいわれる団塊の世代がリタイアされる、 さらなる国際化の時代が到来する、 また新たなスタートを切って進んで行かなければならないという思いであります。

質問に答えて・補足報告

 今日のグループ討論のテーマである 「あなたの会社は何を売っていますか?」 という問いに対する私の回答です。 私の会社、 常磐興産は、 夢を売っています。 誰に夢を売っているのかというと、 まず、 お客様に夢を売っています。 そして、 社員に夢を売っています。 さらに、 地域にも夢を売っています。 それから、 株主の皆さんにも夢を売っています。
  要するに企業を取り巻く全ての人々に夢を与えていけないと、 企業の存続はないのではないか、 こんなふうに考えております。
    ※文責は宮城同友会事務局にあります



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