No.212(2009年2月号)

どうゆう みやぎ

宮城県中小企業家同友会
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【同友会3つの目的】
●よい会社をつくろう。
●よい経営者になろう。
●よい経営環境をつくろう。
発行日/毎月1日発行

第6分科会

伝承し進化させる主体者として

パネラー
(株)八木澤商店
社長 河野和義氏

 

パネラー
(株)八木澤商店
専務 河野通洋氏

 

コーディネーター
宮城同友会
事務局長 若松友広氏

八木澤商店のものづくり

 【河野和義(社長)】1807年に創業し、昨年(2007年)200周年を迎えた醸造業です。創業時は造り酒屋でした。戦争中の1944(昭和19)年、米が配給制となり酒は造れない時代、8軒の造り酒屋が国の方針で半ば強制的に合併しました。その時から八木澤商店は味噌醤油屋に変わりました。私は 1944(昭和19)年生まれ。長男で8代目の後継ぎです。
 1960(昭和35)年に株式会社になります。当時、醤油は安売りを競う時代でした。そこで、「大手が絶対つくらない醤油を造ろう。昔からの技術でほんものを倅や孫に残すのだ」と当時の工場長と一緒にはじめました。2年ものの地元の大豆と小麦を使い添加物は一切入れない。圧力を一切かけないで2年間かけたもろみを搾ると一日に四合壜70本しか出てきません。1982(昭和57)年から2年かけて出来たのが「古式梃子搾り」で、一升3千円します。父(会長)から「昔、大豆も小麦も農家からできるだけ良い物を買って造っていた時代、醤油の値段は散髪代とほぼ同じだった。(私の散髪代が3,600 円です)お前のやったことはまともだった」と言ってもらいました。その醤油が今全国に売れており、当社の機関車になっております。よく 200年続いた秘訣は何ですかと聞かれますが、背伸びしない、身の丈にあった商売をして来たことです。
 【河野通洋(専務)】1999(平成11)年に入社しました。当時、経営状態も悪く、年末の賞与減額を経営陣がお詫びする程でした。経営に対する不満は息子の私にぶつけられました。ある日、メインバンクの支店長が来て、「某金融機関を紹介します。そちらの方が金利も安いですから…」と、明らかに貸し渋りです。何が何でも改善しなければ…と、役員報酬の20%カット、人事権を譲れと生意気な条件を呑んでもらい、取締役に就任しました。同時に経営改善計画書をつくり、社員にも相当辛く当たりました。「俺らとの信頼関係をどう考えているんだ」と言われましたが、「信頼関係など糞食らえ。それで飯が食えるほど甘くない」と10歳も年上の社員に答えました。相当に生意気な私に昔からの古参社員が協力して、何とか数字上での経営改善が成りました。銀行から手のひらを返したように持ち上げられ、天狗になったところで、同友会に入会しました。
 【和義】専務は半端じゃない生意気さでした。「これからはパートナーとして社員と協力してやっていかねばならない」という理想論を言いながら、その人達とつかみかからんばかりの勢いです。見てみぬ振りをしながら辛い思いでおりました。ついていけないと辞めていった人も何人かおりました。
 私は同友会に否定的な時期がありました。経営者の集まりなんてしょせん傷の舐めあいだろうと思っていましたから。専務が帰ってきて会議は増え、建前論ばかり並べるのをはらはらして見守りながら、次第に、正しいこともあるなと思うようになりました。素直になれと言っていた私が専務の話を素直に聞いてなかったことに気付くようになりました。倅の高慢な鼻を同友会が折ってくれたことには感謝しています。だんだん経営者になってきたと思います。本音で話し、妥協なくお互いに切磋琢磨する場は同友会以外にありません。親が子を変えたのではなく、同友会が息子を変えてくれたのです。
 地元、ほんもの、プラス志向、オンリーワン、という4つのことを専務に言い渡しております。このままでは大豆も麦も日本からなくなってしまうと、1989(平成元)年から農業をやり始めました。20年間化学肥料を1回も使っておりません。小さいながらも地元のものを使ってやってきましたら、世の中に偽装だの毒入りだのという問題が噴き出してきた。いま自分で風を起こすチャンスです。地産地消、食育といろいろやったことがようやく先が見えてくるようになりました。専務とは相当ぶつかりますが、事業の方向性と価値観は一致しております。
 【通洋】当社はずっと以前から、お昼を社員食堂でみんな一緒に食べています。その米も、味噌も、醤油も、漬物も自分たちで造ったものをいただいています。
 気仙沼に小原木小学校という一クラス15人ぐらいの小さな学校があります。その子ども達と一緒に豆、きゅうり、味噌づくりをやっています。豆を植えるとカモシカがやってきて食べてしまいます。子ども達は、最初はかわいいと思っていたカモシカを「このやろう」と追い払います。自然との共生とは、人も自然の一部として厳しい生存競争の中で生きているのだ。作物を食う虫を自分の手で潰し、命を奪うこともある。「食」とは尊い命をいただくことだと実感します。先生が興奮して私に教えに来たことがあります。子供達がバックホーを運転しているおじさんに、「校庭を田んぼにしてくれ」と頼んだそうです。先生の許可なくやってしまったそうで、お礼にその米をおじさんに持っていったそうです。こういう取組みが出来るようになってきました。今、親は米の研ぎ方を知りません。それをむしろ子どもから親に伝えていくのです。その中から将来、俺も味噌を造りたいという子が育てば、循環型になる。そういう夢を思い描いて食育をやっています。

とにかく、社員の話を「聞く」

 「経営指針を創る会」には自信を持って臨みました。「だって俺はできている」と思っていましたから。いちばん教えてくれたのは同期の仲間でした。「あなたの言うことは人を動かすテクニックばかりだ。人を動かす手段として経営理念をつくるの」といわれ、頭を抱えました。悩みっぱなしで「創る会」を終えましたが、「皆の協力が欲しい」と会社で発表しました。信頼関係を「糞食らえ」と言った人間が同友会で学んだ途端、協力してくれと言い出したんです。「ふざけるな。無責任だ」となりました。四面楚歌の中、それでも何とかしなければとグループ討論や面談を続けました。土曜日の午後 3 時に集まると、「なぜ、結論も出ない会議をだらだらやるんだ」と私への不満です。「意志の疎通を図るための討論なんだ」「そんなもの必要ない」という押し問答が1年も続きました。
 ある朝、妻から唐突に「会社を悪くしているのはあんただ。皆は八木澤商店が好きだ、必死に良くしようと思っているよ。それを全てあなたがないがしろにしている」と言われました。茫然自失、何も言い返せませんでした。その後、妻は「ごめん」と誤りながら、「でも、言わずにはいられなかった。今言わなかったらほんとにだめになると思った」と言います。…私にはこれができなかったな、捨て身で社員とかかわることをして来なかった。自分の保身を考えない人間的暖かさが欠けていた、と思いました。
 やっと、いっしょに酒を飲んだりするうちに「お前が悪い」という話をしてくれるようになりました。とにかく聞くんです、口を挟まないで。同友会で「黙って聞け」と教えられましたから。今まで理論武装して言い返してきましたから、全て聞くことからはじめました。ある時、便所掃除していたら社員が、「申し訳なかった。言った後から寝れなかったんだ。全部お前のせいにしていた」といいます。嬉しかったですね、素直に言ってくれたことが。その後、そう言ってくれる人がだんだん増えて、「あのまま続けていたら、俺も含めて会社の半分は辞めていたよ。良かったな、変われて」と言われました。
 辞めた社員が次に勤めた会社で事故を起こしました。社長と二人で見舞いに行った時、「辞めなきゃ良かった」と言われました。辞めさせなきゃ良かった、と心から思いました。自分の言動がどれだけ人を傷つけたか、経験しなければ分からなかったのですね。気付かせてくれた仲間にほんとうに感謝しています。

信頼のコミュニケーションの原点は?

 【若松】コミュニケーションが大事だと誰でも言いますが、一緒に昼ご飯を食べながら、その風土が培われているんですね。こんなにも人とのかかわりを大切にしてきたのはなぜですか。
 【和義】1970(昭和45)年のある日、新全国総合開発計画(新全総)によって、陸前高田に石油コンビナートが建設されるという話が起こりました。県も市ももろ手をあげて歓迎しましたが、漁民が反対しました。「象に立ち向うはつかねずみのようなものだが、そのひと噛みを手伝いたい。」と父(会長)が住民運動をはじめたのです。「孫やひ孫に顔向けできないようなまちづくりはできない。第一次産業があり、気候風土があってうちの商売が成り立っている。日本百景の高田松原もだめになる。公害だらけの町でいい味噌醤油がありますって言ったって売れるわけがない」と。結局、杭一本打たせることなく、20年後にようやく撤回させることができました。08年4月に父は亡くなりましたが、高田松原を守った人として記憶されております。父の背中を見て、父の生き方を受け継いでいるのだと思います。
 日本は中小企業の国だといわれる。ところが輸出の為に第1次産業を犠牲にして、外国から買えばいいという学者がいる。今、外国から原料が入ってこなくなっています。20数年前にそういう時代が来るぞと言ってきちがい扱いされてきましたが、私達の言った通りになってしまいました。

価値観を一致させるには ――「違いを認める」ことから

 【通洋】前提として、人は一人ひとり全部違うということです。違いを認めることが出発です。それを否定されると人は止まってしまいます。どんな考えでも自分を表現できる環境があることが最初ではないかと思います。ところが、人は違うのですが同じところがあります。持っている夢とか、危機感とか、思いとかを共有する場合があります。そういう話を交しながらビジョンをつくることが出来るようになってきました。
 経営理念は絶対に必要ですが、経営理念があるだけでは人の心は動かせません。同じ物を食ったり、泣いたり、笑ったり、共に汗をかいたり、お前が言うならやってみようという関係をつくることが大事です。概念だけで理念を振りかざしても信頼関係はつくれません。ただ、日々の仕事で迷い、悩み疲れきって、壁にぶつかった時、経営理念が必要になります。「ああ、俺たちはこの為にやっているんだ」と立ち返り、奮い立つ原点が経営理念です。
 また、5年前から新卒採用をしています。入社して最初にやることは田植えです。泥まみれになって田を植え、腰が痛いと言って雑草を抜く。醤油屋は3Kでキツイ、汚い、臭くて苦しい。でも、10代の女性がなぜ辞めないか。一緒に飯を食うからです。苦しいと言える相手がいて、人間的関係があるからです。新卒を育てていちばん成長するのは幹部社員です。この子を一人前の社会人にしようとする中で幹部が悩み、悩んだ分だけ変わります。
 【和義】社員で農業を嫌がる人は一人もいません。小さな会社ですが見学者が増えています。「元気な挨拶ですね。どうして育てたんですか」と褒められるのが、「いい物造ってますね」といわれる以上に嬉しいです。経営者冥利で、そこに全て集約されます。私は肩書きで人と付き合ってきたことはありません。経営者は孤独ですが、肩書きを取り払って一人の人間として真の友人を何人持つか、ほんものの友こそ宝です。

座長のまとめ

同友会と八木澤商店には合意と納得をとことん追求する努力を惜しまないという点で同質性があります。同友会嫌いだった河野社長が同友会と握手をするに至ったのも両者の本質が近づけたのだと思います。
 「会社は俺のものだ」というオーナー病は後継者にもあります。この分科会の打合わせの中で、社員とかかわるのが怖いという話が、後継者の方々からありました。まず、一人の人間としてかかわることからはじめてはいかがでしょうか。
 企業と地域への展望を持っているか、です。陸前高田の人口は50年前には3万人でしたが、10数年後には2万人を切るといわれています。急激な少子高齢化の中で、食とエネルギーを自給して地域循環型の陸前高田を創る夢を描き、八木澤商店の未来もそこに位置付けています。農業を基盤にした醸造業になる夢を社員も合意して進んでいます。こうした新しい仕事づくりが21世紀型中小企業の役割となります。河野さん達に学んで、それぞれの仕事づくりと地域づくりと同友会運動を結びつけ、未来を切り開いて参りましょう。

今月の内容

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