八木澤商店のものづくり
【河野和義(社長)】1807年に創業し、昨年(2007年)200周年を迎えた醸造業です。創業時は造り酒屋でした。戦争中の1944(昭和19)年、米が配給制となり酒は造れない時代、8軒の造り酒屋が国の方針で半ば強制的に合併しました。その時から八木澤商店は味噌醤油屋に変わりました。私は 1944(昭和19)年生まれ。長男で8代目の後継ぎです。
1960(昭和35)年に株式会社になります。当時、醤油は安売りを競う時代でした。そこで、「大手が絶対つくらない醤油を造ろう。昔からの技術でほんものを倅や孫に残すのだ」と当時の工場長と一緒にはじめました。2年ものの地元の大豆と小麦を使い添加物は一切入れない。圧力を一切かけないで2年間かけたもろみを搾ると一日に四合壜70本しか出てきません。1982(昭和57)年から2年かけて出来たのが「古式梃子搾り」で、一升3千円します。父(会長)から「昔、大豆も小麦も農家からできるだけ良い物を買って造っていた時代、醤油の値段は散髪代とほぼ同じだった。(私の散髪代が3,600 円です)お前のやったことはまともだった」と言ってもらいました。その醤油が今全国に売れており、当社の機関車になっております。よく 200年続いた秘訣は何ですかと聞かれますが、背伸びしない、身の丈にあった商売をして来たことです。
【河野通洋(専務)】1999(平成11)年に入社しました。当時、経営状態も悪く、年末の賞与減額を経営陣がお詫びする程でした。経営に対する不満は息子の私にぶつけられました。ある日、メインバンクの支店長が来て、「某金融機関を紹介します。そちらの方が金利も安いですから…」と、明らかに貸し渋りです。何が何でも改善しなければ…と、役員報酬の20%カット、人事権を譲れと生意気な条件を呑んでもらい、取締役に就任しました。同時に経営改善計画書をつくり、社員にも相当辛く当たりました。「俺らとの信頼関係をどう考えているんだ」と言われましたが、「信頼関係など糞食らえ。それで飯が食えるほど甘くない」と10歳も年上の社員に答えました。相当に生意気な私に昔からの古参社員が協力して、何とか数字上での経営改善が成りました。銀行から手のひらを返したように持ち上げられ、天狗になったところで、同友会に入会しました。
【和義】専務は半端じゃない生意気さでした。「これからはパートナーとして社員と協力してやっていかねばならない」という理想論を言いながら、その人達とつかみかからんばかりの勢いです。見てみぬ振りをしながら辛い思いでおりました。ついていけないと辞めていった人も何人かおりました。
私は同友会に否定的な時期がありました。経営者の集まりなんてしょせん傷の舐めあいだろうと思っていましたから。専務が帰ってきて会議は増え、建前論ばかり並べるのをはらはらして見守りながら、次第に、正しいこともあるなと思うようになりました。素直になれと言っていた私が専務の話を素直に聞いてなかったことに気付くようになりました。倅の高慢な鼻を同友会が折ってくれたことには感謝しています。だんだん経営者になってきたと思います。本音で話し、妥協なくお互いに切磋琢磨する場は同友会以外にありません。親が子を変えたのではなく、同友会が息子を変えてくれたのです。
地元、ほんもの、プラス志向、オンリーワン、という4つのことを専務に言い渡しております。このままでは大豆も麦も日本からなくなってしまうと、1989(平成元)年から農業をやり始めました。20年間化学肥料を1回も使っておりません。小さいながらも地元のものを使ってやってきましたら、世の中に偽装だの毒入りだのという問題が噴き出してきた。いま自分で風を起こすチャンスです。地産地消、食育といろいろやったことがようやく先が見えてくるようになりました。専務とは相当ぶつかりますが、事業の方向性と価値観は一致しております。
【通洋】当社はずっと以前から、お昼を社員食堂でみんな一緒に食べています。その米も、味噌も、醤油も、漬物も自分たちで造ったものをいただいています。
気仙沼に小原木小学校という一クラス15人ぐらいの小さな学校があります。その子ども達と一緒に豆、きゅうり、味噌づくりをやっています。豆を植えるとカモシカがやってきて食べてしまいます。子ども達は、最初はかわいいと思っていたカモシカを「このやろう」と追い払います。自然との共生とは、人も自然の一部として厳しい生存競争の中で生きているのだ。作物を食う虫を自分の手で潰し、命を奪うこともある。「食」とは尊い命をいただくことだと実感します。先生が興奮して私に教えに来たことがあります。子供達がバックホーを運転しているおじさんに、「校庭を田んぼにしてくれ」と頼んだそうです。先生の許可なくやってしまったそうで、お礼にその米をおじさんに持っていったそうです。こういう取組みが出来るようになってきました。今、親は米の研ぎ方を知りません。それをむしろ子どもから親に伝えていくのです。その中から将来、俺も味噌を造りたいという子が育てば、循環型になる。そういう夢を思い描いて食育をやっています。
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