No.193(2007年8月号)

どうゆう みやぎ

宮城県中小企業家同友会
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【同友会3つの目的】
●よい会社をつくろう。
●よい経営者になろう。
●よい経営環境をつくろう。
発行日/毎月1日発行

仙台支部総会

みずみずしい生命力を放つ『人を生かす経営』 から学ぶ
社員がほんとうに心から求めているものは何か?


中同協 顧問 田山謙堂氏 ((株)千代田エネルギー 会長)

はじめに

 1957年創立当時、 東京一ヶ所だけで会員70名ほどだった同友会は、 今日全国47都道府県すべてに展開し、 会員総数3万9千名を誇る押しも押されもせぬ民間の経営者団体に発展してきました。 各中小企業団体の会員数が著しく減少し、 解散せざるを得ない状況に追い込まれていたり、 会員数が激減して将来どう活動していけばよいか分からないというような団体が圧倒的に多かったりするなかで、 私が各地同友会の会合に参加して感じるのは、 必ず地方自治体の知事や市長、 信用金庫などの金融機関の方が来賓し、 みなさん一様に 「活力溢れる素晴らしい中小企業団体だ!」 「地域社会を活性化して豊かにする活動だ!」 とおっしゃることです。 全体とすれば厳しい時代に置かれているなかで、 中小企業家同友会は本当に活力のある団体だと感じているわけです。 なぜ同友会は活力に溢れているのでしょうか?それは、 創立以来 「自主・民主・連帯の精神」 「よい会社をつくろう・よい経営者になろう・よい経営環境をつくろう」 「国民や地域とともに歩む中小企業をめざす」 という理念を各地の同友会がしっかりと守って活動してきた成果だと思います。

中小企業運動のなかで自立の道を選んだ先人たち

 同友会の前身は 「全日本中小工業協議会 (全中協)」 だと言われています。 工業関係の中小企業団体ですが、 昭和22年に戦後の混乱のなかでいち早く結成された歴史があります。 戦後、 日本経済を復興発展させるにあたって鉄鋼・石炭・電力・化学を手がける大企業に資源と資金を集中する 「傾斜生産方式」 という政策が行われました。 「中小企業も日本の社会のなかで日用品や生活品の生産や流通という大きな役割を果たしているではないか?それなのに、 なぜ大企業ばかり資金と資源が集中して中小企業に回って来ないのか?」 と声が上がり、 やがて大運動が起こりました。 その柱になったのが 「全中協」 でした。 「全中協」 が同友会の前身と言われているのは、 同友会を創立したのが 「全中協」 のリーダーでいい伝統を引き継いだ活動家だったからです。  同友会が創立した当時、 「日本中小企業政治連盟 (中政連)」 という団体が一大ブームを巻き起こし一世を風靡していました。 中政連は日産コンツェルンの総帥であった鮎川義介氏が私財を投げ打って設立した団体です。 彼は戦犯で刑務所に入っていた時に 「中小企業を発展させることが日本の将来にとって大切なことだ」 と考え、 3億円という膨大な資金を投じたのです。 中政連が目指したのは、 「中小企業は、 狭い日本で過当競争を繰り返してお互いの足を引っ張っていても儲からないから 『中小企業団体法』 という法律をつくって価格競争を制限しよう」 というもので、 1000万人の会員を擁する一大運動に発展しました。  しかし、 この 「中政連」 の活動に対して、 当時の同友会の先輩たちは 「法律による上からの統制や支配は中小企業の自由を阻害する。 これでは真の発展はありえない」 という信念で同友会をつくりました。 「天は自ら助くるものを助く」 ―― 「中小企業は自立自尊で発展することをまず心がけなければならない」 「民主的に運営しなければならない」 「同友会だけでなく他の心ある中小企業団体とも手を携えて自分たちの要望を貫いていかなければならない」 ということを設立趣意書で謳い力強く立ち上がったのです。

三つの目的こそ同友会らしさ

 昭和44年には 「中小企業家同友会全国協議会 (中同協)」 が設立しました。 東京同友会ができてから12年間の議論を経て全国組織ができあがったのです。 同友会の 「よい会社をつくろう・よい経営者になろう・よい経営環境をつくろう」 という三つの目的は、 第5回定時総会で文章化されましたがすんなりとはまとまりませんでした。 特に二番目の 「よい経営者になろう」 に対する当時の議論は、 「 『中小企業経営者はだらしない』 ということを外に表現することになりはしないか?」 というものでしたが、 議論を尽くした結果 「よい経営のためには、 経営者自身が総合的な能力を身につけてよい経営者にならなければならない」 と決まったのです。 しかし、 今考えてみると、 「どんな状況にも耐えられるよい会社をつくろう」 「経営者自身が総合的な能力を培ってよい経営者になろう」 「努力のしがいのある経営環境をつくろう」 というような目的を掲げて運動している中小企業団体は他にありません。

普遍性と革新性と実効性で貫かれた「人を生かす経営」

 昭和30年代は 「労働組合旋風」 が吹き荒れた時代でした。 そのころの日本の経済成長はすばらしく、 昭和30年代後期には、 ヨーロッパ諸国と経済生産性においてほぼ互角と言えるまでになりました。 ところが日本の賃金水準はヨーロッパ諸国の半分もしくは半分以下なのです。 「こういう状態はおかしいじゃないか?」 というのが労働者の言い分でした。 「日本の労働者の賃金水準を上げ経済的に豊かにすることが、 国内のマーケットを豊かにして日本経済を必ず豊かにする契機になる」 というのが当時の労働組合の考え方でした。 問題はそのやり方でした。 「総労働対総資本」 という言葉をみなさんお聞きになったことはありますか?当時の資本家と労働者というものは 「資本家側は賃金を抑制しようと思っている。 だから労働者側も一致団結して力で経営者に対決しないと自分たちの望む要求は引き出せない」 ――つまり 「対決の図式」 だったのです。 そのなかで同友会は、 「基本的に中小企業は大企業に比べて経営体質は弱いのだから、 大企業と同じように力と力で無理矢理に要求を貫徹するのでなく、 中小企業にふさわしい労使関係があるのではないか?」 という議論を夜を徹して行いました。
 そこで辿り着いたところが 「人を生かす経営 (中小企業における労使関係の見解)」 (以下 「労使見解」) の 「経営者の責任」 という項目なのです。 それは労使の信頼関係を良くしていくには、 まず経営者が経営姿勢を確立しなければならないということに辿り着いたのです。 つまり、 「経営が困難な理由を他に転嫁しないで経営者が全身全霊で取り組まなければ、 社員は決して経営者を信頼してくれないよ」 ということが第一番目です。 第二番目は 「経営者の仕事はたくさんあるが、 一番大切なのは中長期にわたって経営を計画化する」 ということです。 第三番目には、 「社員がイキイキ働ける職場環境をつくることも経営者の責任で、 従業員と経営者がよきパートナーとしての関係をつくり上げることが決定的に大切だ」 ということです。 一項目ずつ読んでいくと、 「労使見解」 がその当時の経営者が企業のなかで経験した困難や問題を具体的に整理してつくられていることが分かるかと思います。 だからこそ30年以上経った今も、 経営の基本に関わる問題を新鮮に提起しているのだと思います。

私が体験した経営危機

 私の会社の最大の経営危機は昭和48年から51年にかけてでした。 私の会社は石油製品の卸小売と大口への直売が主たる業種です。 昭和48年に第1次オイルショックが起こり、 他の業界には大きな影響を与えましたが、 私たちは売り手市場のなかで困ることはありませんでした。 ところが、 その年に私の片腕だった専務が、 子会社乗っ取りを外部と結託して画策していることが明らかになり、 私は 「解雇」 を言い渡しました。 その専務には営業関係をすべて任せ、 私は総務や資金繰りや営業所展開などを主にやるという分業体制だったので、 彼は優秀な連中に目を付けて一種の派閥をつくっていたのです。 専務が辞めてから、 営業所長クラス、 幹部代理クラスの6〜7人が次々と辞めていきました。 中小企業でこのように優秀な中堅幹部が辞めていくというのは大きな危機です。 社員も 「いったい社長はどうしようというのか?」 と動揺し、 私に対する不信がいろいろ起きてきました。 専務が意図的に反田山攻勢を仕掛けていたようで、 会社のなかに私への不信感が漲っていました。 私自身も経営者としてまだ至っていなかったので、 社員とのコミュニケーションを十分に行って意欲を引き出す努力を疎かにしていたのです。
 ところが、 高度成長時代のなかで車は激増していたため、 企業規模はどんどん拡大し続けることができました。 企業は大きくなれば儲かるものではありません。 しっかりとした経営管理をし、 社員の意欲を引き出して経営効率を高めなければ儲からないのです。 一番の問題は 「労働時間」 でした。 スタンドは朝8時に店を開けて夜10時か11時ぐらいまで営業しますから、 業界でも残業時間が月間100時間を超えることなどザラでした。 「いつになったら世間並みの労働時間になって家族団らんの時間が持てるのか?」 と社員はみな不満を抱いていたのです。 優秀な幹部がゾロゾロ辞めていくことで 「われわれの未来はどうなるのか?」 という不安もさらに高まって、 51年に突如労働組合ができました。

問題解決は同友会の学びから

 他の役員は右往左往していましたが、 私は驚いたもののうろたえはしませんでした。 なぜなら同友会の労使懇談会などでずっと労使問題を勉強してきたからです。 労働組合でも上手くいっているところは、 風通しがよく会社もよくなるのを知っていたので、 労働組合ができた以上は決して感情的にならずに、 相手を認めたうえで正々堂々と渡り合って問題を解決していこうと覚悟を決めたのです。
 労働組合との団体交渉を重ねていくといろんな要求が出てきます。 絶対に応じられない要求とある程度応じられる要求というように分けて、 徹底的に役員会にかけて話し合いました。 このようななかで、 「今、 社員が一番切実に求めているのは何か?」 を掴むことの大切さを学びました。 私の会社では 「労働時間」 でした。 そこで私は考え抜いた末に、 当時業界では前例がなかった 「隔週週休2日制」 を実施することにしました。 その代わり、 「絶対に売り上げと付加価値生産性は落とさない」 と約束してスタートしました。 とても心配でしたが 「案ずるより産むが易し」 で、 社員が知恵を働かせてくれて見事にそれを乗り切ったのです。 「社員の知恵はすごいな!」 と思いました。 それ以外にもさまざまな細かい提案も積極的に取り入れて実行することにしました。 そうしているうちにだんだんと不信感がなくなっていきました。 その時気づいたのは、 経営者と社員の信頼関係は口先だけでは駄目で、 社員の思いに対してできることは誠意を持って応え、 無理なことは 「無理だ」 とはっきり示す姿勢が社員の心を開いていくということです。

経営指針の確立は社員とともに

 昭和52年には同友会で 「経営指針の成文化運動」 が始まりました。 そのころ私は中同協の幹事長をやっていて 「経営指針をつくることこそ経営者の責務である!」 と言っていたわけですが、 実は自社にはありませんでした (笑)。 「これではいけない!」 とつくることを決意しましたが 「どのようにつくるか?」 ということは活動方針書に書いていません。 仕方ないので 「経営計画成文化セミナー」 に行きましたが、 「経営理念」 というのは分かったようで分からない。 私の場合、 社員とのやりとりで課題がたくさん出てきたのです。 例えば 「目標は年々高くなっていくが、 どこまでやったらいいのだ?」 と問われ、 「企業の目標というのはどういうことか?」 ということを必死に考えました。 「町で〜東京で〜日本で一番」 と目標は掲げればキリがありません。 そこで 「いつも本当に高いところを目指していないと企業の発展はない」 と思い 「限りなき挑戦」 ということを理念のなかで謳いました。 それから 「経営計画にどう落とし込むか?」 ということを議論し始めました。 営業部長と総務部長と3人で集まり 「来年の売り上げ目標はどうするか?経費はどうするか?このようにすれば経常利益は出てくるだろう」 という具合に数字の上でつくるのは簡単ですが、 実際にやるのが大変なのです。 私は数字をつくり上げるのが経営計画だと思い込んでいました。 一番大切なのはそのプロセスです。 「これが方針だ!みんなでがんばろう!」 と私はいつも言っていましたが、 「笛吹けど踊らず」 で社員はその気になってはくれません。

何のために経営するのか?

 その時に、 「社員と会社の現状を共有することが大切だ」 と思い、 徹底的な話し合いをやりました。 「何でもいいから言ってくれないか?」 と頼んでも、 会議になるとみんな下を向いて何回やってもお通夜です (笑)。 私も 「これでへこたれてたまるか!」 と思い、 あらゆる手段を尽くしました。 泊まり込みの会議が終わった後、 車座になって一杯やりながら雑談です。 それから本格的にいろんな意見が出るようになりました。 例えば 「社長は甘い!遅刻や無断欠勤をする人にきちんと注意して、 規律のいい会社にしようとする努力をしていない!」 などいろんなことを言われました。 そういう意見を織り込む工夫をして経営計画をつくり上げました。 ところがなかなか上手くいきません。 そこで、 自社よりも遥かに立派な業績を上げている会社へ幹部を引き連れて教えを請い、 一緒に学ぶということをやり始め、 今も続けています。 そういうことを続けるうちに社員の意識も変わってきました。
 みなさんは 「経営者冥利に尽きる」 と思った体験はありますか?私の会社で新入社員教育を行う時に、 業務課長が冒頭に 「この(株)千代田エネルギーという会社を選んだことは、 君たちの人生にとって大変幸せなことです。 なぜなら業界のなかでこの会社は一番よい会社であると思うからです。」 と話してくれました。 一度も指示したことはなかったのですが、 その彼の気持ちが私はとてもうれしく、 「経営をやっていてよかったな!」 と心から思いました。
  「何のために経営するのか?」 ということに対してはいろいろな考え方があるとは思いますが、 やはり働いている社員が 「この会社で働いてよかった」 「人生をここに賭けてよかった」 と思う会社をつくることが経営者にとって重要なことであり、 原点だと私は思っています。

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