経営研究集会 第6分科会
「社員の力が企業の力」

    〜 わが社の業績は社員しだい 〜



東日本機電開発(株) 社長 水戸谷完爾氏
(岩手同友会)


 私は昭和37年、 トランスと配電盤を製造する会社に入社しました。 8年ほど勤めたとき、 お客様であった精米機器などの据付け工事をしている会社の社長から、 新しい事業〜穀物加工プラントで使う制御盤の製造〜を始めるから来ないかと声をかけてもらい、 昭和45年にその会社に入りました。 その新しく立ち上げた会社が東日本機電開発です。 当時私は28歳でしたが、 役員として立ち上げに関わりました。 そのとき、 自分なりにこの会社の運営について次の三つの方針を立てました。
@技術力を活かして同業他社との差別化をする。 〜設計能力を身につけて競争力を高め、 他社と同じような製品を作るとか加工するという作業能力だけではダメだと思いました。
A軍需産業には手を出さない。 〜当時はまだ冷戦の中にあって米ソがにらみ合っていましたし、 私は戦中の生まれですから、 戦争の悲惨さは多少なりとも実感しています。
B地域の需要には地域で供給する。 〜地域の仕事でありながら、 仕事のほとんどを大手メーカーが持っていきます。 それを地元でできる、 地元ができる力をつけようと思いました。 それにはまず技術力を高めることが最優先課題だと考えました。

公私混同が会社をつぶす


  当時は、 親会社にも就業規則もなく、 全ては社長の一存で決まる。 働く条件が何も整備されていない環境でした。 社長は環境整備よりも仕事を一つでも多く取れという考え方を持っていました。 経営計画書はもちろんありません。 だから社員は社長の顔色をうかがいながら、 社長の指示を待って動きます。 社員が自主的に考えて行動するなんてことはありえません。 それから社長の公私混同が激しく、 会社は完全に社長個人のものでした。
  その様な中でも受注面では、 東北新幹線の駅周辺に設置するポイントの自動融雪装置の仕事や、 岩手県の水道普及率アップの計画に沿った上水道・簡易水道の仕事など、 お客様や社会的環境に恵まれて好調でした。
  そんな中で昭和57年10月、 親会社から突然 「今日、 手形決済ができないかもしれない」 と言われたのです。 経理の一切は専務 (社長の義弟) が担当、 その前にグループ会社のひとつが倒産しており、 幹部社員も辞め、 お客さんも離れていき、 親会社本体にも大きな影響を及ぼしていました。 社長と専務は当社の役員を辞任し、 私が社長を引き継ぐことになりました。 しかし、 そういう状況の中で私も意欲をなくしまして営業活動も停滞してしまい、 その年は2000万円の赤字を出してしまいました。


会社再建  

 大きな債務を抱えて会社の立て直しに入りましたが、 対応策として実践したのは次のことでした。 @社内規定の整備。 社内規則と就業規則を作って社内に発表しました。 A縦割りでなく、 機能本位の組織づくり。 年齢などにかかわらず言いたいことを言える社内環境を作るのが目的でした。 各部門の若手社員に毎晩集まってもらって社内でやらなければならない仕事を洗い出して部門別に分け、 有機的につなげていきました。 この組織の大前提は、 責任と権限は表裏一体の関係にあることです。 新入社員であっても、 お客様と折衝する全ての権限は本人が持つことです。 B決算書の公開 (経理公開)。 働いた成果は全て決算書に表れてくるので、 管理会計のシステムを導入し予算制に合わせて月次決算して全員で検討することにしました。 57年〜58年にかけて社内勉強会を行い、 会計のシステムを理解したうえで公開しました。 決算書は自分たちで働いた成果ですから、 そこをきっちり実感してもらいたいと思っています。
  これで最初に効果が出たのが消耗品の消費量です。 ものすごく減って、 社員たちが会社の中のことに関心を持ちはじめました。 ひとつ実績を作ると別な部門にも目がいきます。 そうやって全体でコストを下げるという意識が出たと思います。 こうして昭和57年6月、 わが社は全ての膿を出しきってスタートすることができたのです。


会社のビジョンとその実践

 平成4年に岩手同友会に入会して、 社員教育に対する考え方にショックを受けました。 社員教育とは、 経営目標を達成するために行なう手段だと私は思っていたんですね。 同友会の 「人間そのものが成長していくことが、 最大の効率化だ」 という考えがショックでした。 それからいろいろな講習会に社員を強制的に参加させていたのを一切やめて、 自分で本当に必要だと思ったものを勉強してもらうという方針に切り替えました。
  また、 経営指針を成文化することは経営者の責務ということも同友会で学びました。 それまで経営計画書はずっと作っていましたが、 経営理念とか戦略・戦術の部分には私はほとんど触れていなかったのです。
  経営指針を成文化し、 今年で13回目の発表になりますが、 今期の発表会で社員からこういう質問が出たのです。 「わが社の課題の中で人材育成が会社存続の条件とありますが、 人材育成をどのようにしていくお考えですか」。 経営指針が浸透するのはなかなか難しいというのが実感です。
  経営指針書を読めば書いてあるという程度では、 社員は理解しません。 私も一年目に全員で読み合わせていたので分かってもらえていると思っていましたが、 それくらいではなかなか理解してもらえないと思います。 ですから粘り強く続けるしかない、 途中で止めずに継続することです。 現場を見せて理解させたり、 何故こういう仕事があるのかを気づかせたりすることが大事だと思います。 私は 「あなたの役割はなんだ」 という問いかけを社員に常にします。 新入社員だろうが自分の役割をきちんと理解すると、 間違いなく能力はあがります。 それが、 社員が成長する一番の早道だろうと私は思います。

新しい仕事づくり

 わが社の経営理念 「わが社は社会的共通資本の充実に貢献し住み良い環境づくりをめざします」 はわが社が公共性の高い仕事をさせてもらっていることを誇りに思い、 大事にしようという思いを掲げています。 社会的共通資本=インフラ・社会資本ということだけでなく司法、 教育等の社会制度や自然環境も含んでいます。
  新設した環境事業部は、 経営理念を確認し続ける中で社員から提案があがった部門です。 一昨年、 土づくりの研究を永年熱心に続けている人に入社してもらいました。 彼の考えは 「健土・健食・健民」 ―― 健康な土を作らないと健康な食べ物はできないし健康な人間も育たない、 というもので、 これは面白いと思いました。 現在、 彼の技術を使って鶏糞の大幅減量化をやっています。 冬場は処理に困るという鶏糞を85%以上減量させるという仕事を提案し、 去年9月〜今年3月まで、 思い切って成功報酬という条件で受注しました。 結果は3月末の時点で80%程度でした。 本来なら契約は破棄ですが、 その後6月末まで継続してみたところ89%減量を達成できたので、 結果的には契約の半値で決着しました。
  環境事業部としてめざすのは、 日本の、 岩手の土を変えること。 化学肥料で壊された土を改善して健康な食物を作ること。 これらは商売としては成り立ちにくいだろうと思います。 しかしわが社の環境事業部はそれを成立させようと思っています。 鶏糞の減量化・畜産の糞尿処理の仕事で、 環境事業部として収益を上げる体質をしっかり作りながら取り組みます。 環境事業部の社員は日本の土は戦後60年かけて壊れた、 だから回復するのも60年ぐらいかかるだろうと言っています。

社員は最も信頼し得るパートナー

 仕事の実践部隊は私ではなく社員一人ひとりです。 それぞれの部門で担当している人間がそれぞれの責任をきっちり果たす、 それで成り立っている。 うちの会社は一人では誰も仕事の完結ができませんから、 一人として手抜きをしない、 一生懸命やっているのは間違いないので、 それを有効に結びつけていくのが私の仕事だと思っています。 要するに、 人はみんな一人ひとり違うことを認め、 それぞれにある良いところを見つけるようにする。 できうる限りコミュニケーションをとる。
  『労使見解』 では、 一番目に経営者の責任を挙げていますし、 2番目に社員は最も信頼し得るパートナーとなる存在だと言っています。 パートナーの協力がなければ中小企業は存在できません。 信頼できる環境を作るために経営者としてこれからも努力していかなければなりません。 一人ひとりが自分の力を120%発揮でき、 自主的自己管理ができるような社風づくりをめざしているところです。



■「みんなの気持ちが集まれば
小さい地域ほど希望がある」

 

■「社員の力が企業の力」

■『社長と幹部の仕事とは何か』

 

■企業と地域の魅力あるリーダーとなるために
■神戸での感動の学びから
人づくり、 企業づくり、 地域づくりを