社員共育塾第5講
「子どもたちが私の先生」

 青少年自立支援センター ビバの会 ビバハウス
  

運営委員長 安達 俊子氏


自分たちの教育は自分たちでつくっていく教師になりたい

 私が勤務していた北星学園余市高等学校は1965年 (昭和40年) にキリスト教主義に基づく中学、 高校が3つ、 短大、 大学、 大学院を有する学園の最後の学校として余市町に設立されました。 余市町はかつてニシン漁やりんご、 なしの産地で栄えた町ですが、 今では農漁業の不振や少子化の影響で人口2万3000人。 私はこの町で英語科の教師を35年間務めました。
  発達成長途上の感性豊かな子どものころは、 周りの大人から大きな影響を受けます。 この時期にどんな大人が存在するかが大変重要になります。 私が英語の先生になりたいと思ったのは、 小学校の5,6年の担任の先生との出逢いからです。 当時の放課後その先生は英語を親身に教えてくれました。 私の中にある知的好奇心を目覚めさせてくれました。 英語という未知なる言語にふれた感動を、 今でもはっきりと覚えています。 また、 これからの女性は仕事を持ち、 精神的にも経済的にも、 自立した人間として生きていく必要があることを身をもって教えてくれました。 優しくて、 子どもたちの可能性を開花させられる、 子どもたちに夢や希望を抱かせる教師になりたいという夢をこの時持ちました。
  高校卒業後、 尊敬する先生の出身校である北星学園に進みました。 教育実習の中で、 生徒ひとりひとりを大切にする、 個性を伸ばす、 社会的自立に備え豊かな学力を身につけさせる、 自分たちの教育を自分たちでつくっていくという先生たちのパワーに、 真の教育は私学にあると強く感じました。 実習後、 私は、 先生になるなら北星学園の先生になりたいと心の中で強く思いました。
  そのころ、 北星学園余市高校が開校することになり、 教職課程担当の先生が声をかけてくれました。 面接試験で校長先生が 『来年新しい校舎ができるまでこれまで50年間使用した町立小学校の旧校舎の一部を借ります。 雨風雪が吹き込む木造校舎で教育設備など何もないところからのスタートですが、 新しい教育創造の輪に加わってくださいますか?』 の校長先生の言葉に力が涌いてくるのを感じました。

『無処罰主義』 から 『自主規律運動』 へ

 しかし、 開校と同時に暴力事件が多発します。 なぜ生徒たちがこうなるかには理由がありました。 余市町では公立志向が強く私立は公立高校を落ちた生徒が行くところという意識が強く、 中学浪人や他校の退学者も含む北星余市高校の生徒たちは、 余市町の人たちにとっては歓迎できる存在ではなかったのです。 町内で悪いことが起きると北星余市の生徒ではないかと冷たい視線、 家庭に帰れば 『お前は勉強ができないから北星余市に行くことになった。 授業料は高いし、 お前は金食いの親不孝者だ』 と言われる。 生徒は毎日嫌でも公立を落ちた自分を思い知らされるのです。 やりきれない思いで、 けんか、 仕返しの繰り返し連日事件が起こります。 開校時に掲げた 『無処罰主義 (※1)』 を貫こうと生徒たちと粘り強く話し合いを重ね反省を迫りますが効果もなく、 事態はますますエスカレートし、 開校して1年も経たないうちに私たちは、 『無処罰主義』 の理想の旗を降ろさなければなりませんでした。 事件が起これば処分、 退学。 生徒たちもこのままでは次々と仲間を失ってしまう。 自分たちの問題は自分たちで解決しなければ仲間を守れない、 と気づきました。 生徒たちは自ら、 『仲間・友情・団結』 のスローガンを掲げ生徒会が立ち上がり、 自分たちの問題は自分たちで解決していく、 『自主規律運動』 がおこりました。 その後それは後輩に引き継がれています。
  創立12年目に起こった、 現在もなお 『10, 16事件を忘れまい』 と語り継がれている事件があります。 生徒同士が護身用にと持っていたナイフで相手を刺して怪我を負わせてしまったのです。 当時はテレビや新聞で大きく報じられ、 生徒も教師も父母も 『北星余市はいよいよ終わりになるのでは…』 と地獄のような苦しみの日々を味わいました。 しかし、 先輩たちがそうしたように、 苦しみの中から生徒会が立ち上がり1ヶ月に及ぶ全校討議を巻き起こし、 『なぜこのような事件が起きてしまったのか、 2度と繰り返さないためにはどうしたらいいのか』 を徹底的に話し合い、 暴力追放宣言をつくり上げ、 以来北星余市においては、 いじめ暴力のない学校づくりに取り組んでおります。
  最近の大きな事件、 『大麻事件』 (※2) も生徒たちの中に 『自主規律運動』 の灯がともり続けていたからこそ、 多くのマスコミの非難の中、 若者たちを汚染しつつある社会的大問題の解決をただ警察に任せるだけでなく、 生徒教師が一丸となって立ち向かうことが出来たのだと思います。
  現在全国で問題となっている学級崩壊についても、 北星余市高校では創立当初からこの事態に見舞われていました。 教員会議の話し合からたどりついたのは、 『思想信条を越え徹底した話し合いから方針を見いだし一致団結して生徒指導にあたる』 ということを確認しました。 これを創立以来守り抜いてきたおかげで学級崩壊を招かず歴史を積み重ねてくることができているのだと思います。

※1:無処罰主義=処分はせず徹底的に話し合いを重ね生徒の心を変えていく指導
※2:大麻事件〜北星学園余市高校の薬物問題への取り組み〜=1996年一人の生徒が寮の中に大麻を持ち込んだことから発覚。 4年後更に大量の生徒が汚染していることが発覚し2001年9月マスコミで大々的に報道される。 その後、 全校をあげ生徒・父母・寮下宿管理人・教師一体となり大麻等薬物問題に取り組む。 自らの集団を律する 『生活改善運動』 を、 北星余市の教育精神の要でもある@だめなことを 『ダメ』、 いやなことは 『イヤ』 と言い合える関係を学校生活全般で築く。 A過ちを犯してしまった者が、 自ら過ちを自己申告できる勇気を持てるよう働きかける人間関係を築く。 という2点から本当の信頼できる関係の構築を目指し、 薬物追放へ取り組んでいる。

地域をあげて生徒を育てる

 学校の外から生徒たちを応援しようと、 パワフルで独創的な活動を展開し続けているPTAの活動があります。 これは全国一と誇りに思っています。
  町の意識も変わってきました。 北星余市高校があることで若者が集まり、 たくさんのお金を使ってくれることに気づき、 変わってきました。 商店街を中心に北星余市高校の後援会が立ち上がり、 独自に教育後援会を開くなど盛り上げてくれています。 また、 全国から生徒を迎えるようになり町の方々にも寮や下宿を開いてもらっています。 今では40数軒の協力を得て、 余市で過ごす三年間、 余市のお父さんお母さんとして一生懸命かかわっていただき、 地域をあげて生徒を育てています。
  もちろん教師も北星余市高校の教育を知っていただくため 『教育を語る集い』 や、 生徒たちが企画立案し教師が応援する形で 『クリスマス会』 など、 町の方々と一緒に行ってきました。 また、 ボランティア活動も余市高校を知っていただくためひと役かってきました。 ボランティア活動に参加した生徒たちは、 各種施設を訪問交流するなかで、 自分は生きている、 生かされていることを実感し大きく変わっていきます。 私も生徒たちの大きく変わっていく姿をうれしく思ってきました。

子どもたちから教わったこと

 教師になって6年目のある日、 生徒から 『教師面してお高くとまっている先生が大嫌いだ。 いつも完璧にやらなくてはと力が入っている先生をみるとイライラする。 先生だって悲しいこと、 つらいことだってあるだろう。 俺たちの前で涙を流して泣いたって、 失敗したっていい。 俺たちが悪いことしたときはしっかり叱って欲しい、 人間教師になって欲しい』 と言われたのです。 私は打ちのめされました。 もう生徒の前に立つ資格はないとまで思いましたが、 生徒は私が変わることを期待しているのだと気づき、 それからは素直に自分の思いを表現し、 全力で生徒たちに立ち向かうことができるようになりました。
  そんな時、 また私に自己変革を突きつけられる生徒が現れます。 みなさんもよくご存知の義家弘介先生です。 当時、 地域の過疎化と少子化が急激に進み生徒減となり廃校案が出されました。 教職員は北星余市の教育の灯を絶対に消したくないという思いで存続の道を連日連夜話し合いを続けました。 その中で、 全国で12万人、 道内でも6000人と報道されていた中途退学者の問題がありました。 さまざまな問題を抱えた生徒たちと向き合ってきた私たちの使命は、 学校を辞めることになった生徒たちに再び教育の機会を与えることではないかと、 全国から中退生を迎えることと、 教職員の給料の4%を寄付することを提案し存続の承認を得ました。 創立23年目を 『転編入生受け入れ元年』 と呼んでいますが、 その2年目に私のクラスに編入してきたのが義家君です。
  当時、 クラスに不登校で進級が難しくなった二人の転入生がいました。 私は二人に学校に来るよう説得をしていましたが、 改善されずクラスにそのことを伝えました。 それを聞いた義家君は 『俺たちは北星余市が最後の場所だ。 ここを辞めたら行くところがないんだ』 『何故こんな大事なことを早く言わない、 俺たちのことを信頼していなかったからだろう』 と言いました。 その言葉は私に突き刺さりました。 それから、 私から出てきた言葉は 『ごめんなさい』 の言葉でした。 その言葉を聞いた彼は、 クラスのみんなに 『今日からふたりのところに説得に行くがみんなも行ってくれないか』 と働きかけたのです。 その日からチームを組んで二人の所へ通いました。 数日後、 その二人が教室に帰ってくることができ、 これがきっかけでクラスが一つにまとまることを学び覚えた生徒たちはみんな揃って進級を実現しました。
  また、 『不登校生受け入れ元年』 といわれる創立31年目を迎えた時も私は担任を引き受けました。 この頃の生徒たちは義家君たちとは違い、 繊細で傷つきやすく、 自分の殻に固く閉じてこもってしまう。 教師は言葉を選び、 表現にも最大限の気配りをしなければなりませんでした。 人間不信に陥った生徒たちとの間に信頼関係が築けるよう、 関係づくりに努力し、 生徒自ら語り出すまで待つことができる教師になることも教えられました。
  生徒たちのさまざまな言動は心の表現です。 行動の背景や理由を理解し心の中まで入れる教師になってほしい。 それが分かった時、 心底生徒がかわいくて、 なくてはならない大切な存在になりました。 生徒たちは私に教師としてのあり方、 教育のあり方を教えてくれました。 北星余市での35年間は生徒たちが私の先生、 生徒たちから学ぶことばかりでした。

生活力を取り戻す場所を
  〜 『ビバハウス』 設立へ〜

 教師生活35年を経てふと気が付くと身体が思うように動かなくなっていました。 生徒と体当たりの教育が出来なくなった時が学校を去る時だと決めていたため、 心はまだまだ北星余市高校にありましたが、 学校を辞めることにしました。
  その年、 一人の26歳の女性の卒業生から電話が入りました。 そして必死に 『助けて』 と言うのです。 彼女は家庭の事情により一人では生活できない状態でした。 彼女の生活力を取り戻す場所、 彼女が生活出来る場所を保証することが必要だと実感しました。 これがビバハウス誕生の理由です。
  なぜたった一人の卒業生のために、 自分の退職金を使ってまで設立しようと思ったのかは、 以前私は自分のことで悩みに悩んで私に助けを求めて来たある生徒の必死のサインを受け止められず、 死を選ばせてしまったことがありました。 そのことは本当に自分を責め続け、 もう二度と同じ過ちは絶対に繰り返さないと誓っていたのです。 その女性の 『助けて』 という言葉は、 私の気持ちに重なったのです。 〔次号へ続く〕
(※文責は同友会事務局にあります)



■「これからの“まち”づくりと中小企業家の役割」

 

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