2005 経営研究集会 第4分科会報告
「苦境から生まれた大ヒット商品」
〜 中小企業の発展なくして地域の活性化なし 〜


         
ミナミ産業(株) 社長 南川 勤氏 (三重同友会)


 私どもの会社は豆腐製造機器のメーカーです。 今から54年前、 私の祖父と父が四日市市で豆腐の濾過布を販売する商売を始め、 その後にがりなど、 いろいろな資材を豆腐屋さんに売っていました。 父親は手先が器用なこともあって、 大豆を磨り潰す機械等を開発して地元の豆腐屋さんに販売しておりました。 小型の油揚げ包装機を開発したのをきっかけに全国に販売するようになりました。 その後も豆腐製造を省人化、 省力化する機械を立て続けに開発しました。 まだ豆腐屋さんがたくさんあった時代でしたから、 時流に乗ってお客様は全国に広がり、 売り上げも順調に伸びていきました。

急激な全国展開がもたらしたもの

  同時に重大な問題も抱えていました。 社員がついていっていなかったのです。 一気に全国展開をしたので人手も足りず、 社員も育っていませんでした。 機械の多くを一社の外注に依存しており、 修理の知識も乏しいものでした。 豆腐屋さんとしては毎日スーパーに納めなければならないから今日壊れたものはすぐにでも直してほしいのに、 すぐに対応できる体制はありませんでした。 故障の多い機械もあってお客様からのクレームは多発する中で、 機械製造を外注していた会社が別会社を作ってうちの主力商品の改良型を展開し始めてしまい、 社員はそこに引き抜かれ、 わが社は厳しい状態に陥りました。
  私が大学卒業と同時に東京から戻り、 会社に入ってみると内部体制はめちゃくちゃでした。 まず人がすぐ辞める。 ですから親戚をずいぶん入れて何とかしていたのです。 私が入ったときは、 私の従兄が営業を支えていたのですが、 社長 (父) とかなりもめていました。 社員たちも仕事をボイコットして、 お客さんからの修理依頼があっても行かないという状態でした。 社長の息子の入社も歓迎されてはおらず、 私はずっと疎外された存在でした。
  なんとか手を尽くさなければならないと思い、 早朝から夜中までお客様のところを訪問したり、 修理したりしてみましたが、 そういうことを自分ひとりだけでやってもほとんど効果もなく、 会社は信用を失い、 私も妻も体調を崩して、 ただ悪化の一途をたどっていくだけでした。 そこへきて、 営業を支えていた従兄が急死してしまい、 業界の中でミナミ産業はつぶれるぞという噂がたちました。

28才で社長に就任

  あるときに起きたトラブルの責任をとる形で、 父が別の従兄に社長を譲ることになりました。 しかし結局、 父は銀行との関係などで社長を譲らず、 社内はさらにもめました。 ついにその従兄から私は 「今のままでは会社はあかん。 お前が社長をやってくれ」 と言われ、 会長 (父) と社長 (私) と専務 (従兄) の合議制で進めて、 社内の足の引っ張り合いをまずなくす体制をつくることにしました。 社長としての最初の仕事は仕入れ値の洗い直しやお客様へのサービスの徹底でした。 すると一年目に赤字が黒字に転換しました。
  ところが二年目に大きな問題が起きました。 大口のお客様がバブル崩壊のあおりを受けて他の事業への無理な投資が原因で破綻し、 同時にメインの仕事が一気に無くなったのです。 それを想定していなかったので急きょ、 機械を開発してみたりしたのですが、 完成度が低くてクレームが殺到するような状況でした。 専務が悪いとか会長が悪いとか、 また責任のなすりつけあいになって会社の雰囲気がますます悪くなっていきました。 会社はまた赤字に転落し、 従兄たちは見切りをつけ、 お得意様のバックアップをもらって別会社を作ってしまいました。 社員や仕入先も離れていき、 失墜した信用や風評で契約もいくつかキャンセルになって本当に厳しい状態に陥りました。 必死に踏ん張ろうと昼夜を問わず働きましたが、 この流れをとめることができませんでした。

「周りに迷惑をかける前に・・・」

  あるとき、 上場しているスーパーが豆腐加工を含む大きな食品工場を作るということを知り、 必死の営業努力の結果、 その仕事を1億6000万円位で取ることができました。 先に機械を作らなければならないので、 エンジニアリングを総括する一部上場企業との契約書を持って銀行に融資のお願いに行きました。 間違いなく貸してもらえるだろうと思ったら、 銀行にはその意思はありませんでした。 理由は、 社内がもめていること。 お客様となる豆腐屋さん自体が減少しており将来性がないこと。 過去の成功体験にこだわって、 現状に見合わない新しい機械をどんどん作ろうとしていること等でした。 ―― 逆に廃業を勧められ、 悔しいけれど返す言葉がなかったです。 それでも受けた仕事は何とかしたいと思い、 仕入れ方法などを一から再検討してみた結果、 借入れに頼らずさらに1000万円ぐらい安く仕入れることができ、 その仕事を軌道に乗せることができました。
  この成功によって少しずつ仕事がくるようになり、 ここで次の手と思い、 以前から私が暖めていた新しい発想の豆腐自動化の機械に着手しました。 新たな協力会社と開発を進めようやく構想がまとまった時点で、 父が独断で全く違う会社に機械製造を依頼したために信頼関係を築き開発に協力してくれた会社も離れていき、 結局製造を依頼した先ともトラブルが発生して訴訟問題になってしまいこの開発がストップしてしまいました。 このときこのトラブルを私が解決するかわりに、 父には完全に退いてもらい、 全面的に私が会社を見ることになりました。


ニッチでならトップになれる

  特にこれといった戦略もなく、 起死回生のつもりですすめた自動機の開発も断念しなければならなくなり失意のどん底にいたときに、 東京大田区のある町工場が独創性をいかしてニッチの分野でトップシェアを築いたという1枚の記事の切り抜きを父が机の上においてくれました。 これをみて大きな衝撃を覚えました。 「他がやっていない独創的な開発でニッチトップを目指す、 これだ我々の進むべき道は」、 暗闇でもがいている私に大きなヒントをくれたのは、 これまで何度も衝突してきた父からの1枚の切り抜きでした。 実際にどのようなことで独創性を出せるか繰り返し繰り返し考えました。 突き詰めていった結果やっぱり自分の得意な豆腐だとの考えに至りました。 それで開発したのが、 ホテルや飲食店向けの卓上サイズ豆腐製造器 「豆クック」 です。 同業他社が量産化大型化の機械ばかりに目線がいっていたので、 それの逆の市場に注目しました。 これは韓国でも展開したのですが、 あっという間に内外で数百台が売れました。 あるとき偶然、 韓国のスーパーで豆クックで作っている豆腐販売所を見つけました。 ここではこの豆腐を販売員さんが一生懸命に売ってくれている姿を見て感動しました。 「この豆腐は日本の新しい技術で作った豆腐で美味しいよ」 と言って。 今までお客様からほめてもらえることなんてありませんでした。 「俺はこういう仕事がしたかったんだ」、 自分が求めていたものをそこで見つけ出しました。
  さらに、 顧客のニーズを聞き、 出来たてを追求していった結果 目の前で豆腐を作れる鍋のアイデアへと発展していきました。 それが 「萬来鍋 (ばんらいなべ)」 です。 萬来鍋の素材としてふさわしいのが地元の万古焼きでした。 万古焼きの土鍋は耐熱性にも優れており、 地元の焼きもの産業が中国に押されていましたので、 あえて万古焼きにこだわれば話題になるという確信がありました。 しかし、 開発は予定通りに進まず、 商品開発中に鍋の試作を持って万古焼きのメーカーへ行ったとき、 アイデアは評価してもらえても具体化は難しいと断られ、 最初は戸惑いもしました。
  作るまではどうにかなりましたが、 問題はどう売るかでした。 萬来鍋の販売を開始してみると、 万古焼き・わが社の加工技術・中小企業同士の連携で鍋を開発、 という話を中日新聞が載せてくれたのです。 それから他の新聞やテレビでもどんどん取り上げてくれ、 ホテルや旅館・飲食店・デパートなどから問い合わせが殺到しました。 当初は年間1000個ほど売れればよいだろうと思っていましたが、 年間2万個ほどのペースで売れています。 豆乳やにがりも合わせると年間一億円近い売り上げが増えて、 わが社のイメージも転換でき、 そして万古焼きの産地も注目されるようになりました。

私がやりたかった仕事、
やらなければならない仕事


  うちの経営理念が 「食を通じて世界の人の平和と健康に貢献する」 なんですね。 萬来鍋や豆乳やにがりを現在、 アメリカでも売っています。 アメリカでは、 豆腐が今のヘルシー志向に合っていること。 お客様の目の前で豆腐を作るという演出。 鍋の応用性などに関心が持たれているようです。 ニューヨークのある店に行ったとき、 おすすめだと言われる出来立て豆腐をオーダーしてみたのです。 出てきた瞬間、 泣きそうになりました、 「これはうちの…」 と言おうとして、 胸がいっぱいになって何も言えなくなってしまいました。
  わが社は本来、 豆腐製造の機械屋ですから、 鍋や豆乳を売ることは豆腐屋さんの商売の邪魔になるのではないかと思ったこともありました。 しかし現在、 日本に1万4000軒ぐらいある豆腐屋さんは非常に厳しい低価格競争の渦中にあって、 年間5%ずつ軒数が減っています。 わが社でも10年前のお客様上位10社が倒産か廃業しています。 そんな流れを変えなくてはならない、 その切り口を誰かが作らなくてはならないだろうと思ったのです。 そのためには実際に行動に起こさないといけないと考えました。 結果、 豆腐屋さんからも支持されて従来スーパーだけに頼っていた豆腐屋さんの新しいビジネスツールとして使われるようになっていきました。 低価格戦略に頼らずとも、 イノベーションにより新しい価値や顧客を創造することができるのではないか、 こんな思いを実現させたいと考え挑戦しつづけています。 業種は違っても案外同じようなことがいえるのではないかと思います。

楽しみながら健康づくりを、
楽しみながら環境保全を


  豆クック、 萬来鍋と併せて取り組んできたのが、 おからの出ない 「大豆まるごと豆腐」 です。 これも最初は失敗の連続でしたが、 今はおからの出ない大豆まるごと豆腐というニッチの分野ではトップと言ってもらえるようになりました。 最近ではこの原料 (ロハソイパウダー) をつかってデザートや飲料、 練り製品等いろいろな食品分野でも少しずつ使われるようになっていました。 特許申請はしておりますが、 既に似たようなものが徐々に出てくるようになってきました。 常にエンドユーザーに目を向け、 お客様に満足してもらえるような企業努力が必要であると考えています。
  また、 これからの方向性として持っているのは、 生活を楽しみながら健康づくりと地球環境保全に応えられるような商品、 経営理念を前面に出した展開です。 LOHAS (ローハス) というと流行り言葉になってしまうかもしれませんが、 LOHAS 的な流れと近年わが社が目指してきた方向性が一致しているので、 こういう展開や連携をキーワードにしていこうと考えています。
  私が入った頃、 社員のモチベーションは著しく低下していました。 大きな要因はお客様にいつもお叱りを受けるような環境にいたからだと思います。 顧客満足が得られていないから、 お互いに悪口を言い合って責任転嫁する。 そんな環境で面白いわけがありせんし、 モチベーションもあがりません。 そのような会社では社長がいくら良い意見をいってもなかなか聞きいれてくれません。 「どうせできるはずはない」 といったネガティブな雰囲気を変えていくには小さな成功体験の積み重ねが大切ではないかと思います。 ひとつひとつ実現していくことで 「ひょっとしたらできるんじゃないかな」 「俺たちもやってみよう」 というポジティブな雰囲気がうまれてくるのではないかと思います。 顧客満足の向上のためにも社員との信頼関係の重要性をこれらの体験で学びました。

 

第4分科会に参加した方からの感想

報告内容での今まで来るまでつらかった経験はとても参考になり感心しました。 人との横とのつながりを大切にし、 共有した考えを持って今後に生かしたいと思います。
(光進電気工業(株) 草野大輔 社員)

グループ討論において、 他の中小企業が抱えている問題が出たが、 共感できる部分が多々あった。 私が普段考えていることが他の人から出たので驚いた。 それだけ中小企業が抱えている問題は共通しているのだなと思いました。
(ワークスプラン(株) 大沼 敦 社員)】

どんな苦難の中でも、 それを乗り越え、 新しいことにチャレンジし続ける南川社長のように、 現状をどう改善するかを考え仕事に取り組みたいと思いました。
((有)明進運送 佐藤理沙 社員)

1. 今の仕事、 提供価値を根底から見直す考え方と異業種と組み合わせる考え方に新しい高価値を生む源泉があると、 改めて強い感動をいただきました。
2. グループ発表から、 社長が社業を楽しく思い輝いているから、 社員も輝いて活躍できる。 視点を変えて見ると難しいことも案外楽にできる。 協業の仲間にもそれは伝わり良い環境となる。
((有)信幸冷熱サービス 村松幸雄 経営者)

トップリーダーは、 目標を定め、 決してあきらめることなく、 周囲の人たちと思いを一つにし、 いかなる困難も喜んで乗り越え、 前に進むべき!改めて心からその決意ができました。 大いなるパワーをいただき感謝しております。
((株)仙北屋山内 柳澤 忍 経営者)


■中小企業が主役の日本を

 

■「苦境から生まれた大ヒット商品」

■「地域に愛され必要とされる店づくり」