私どもの会社は豆腐製造機器のメーカーです。 今から54年前、 私の祖父と父が四日市市で豆腐の濾過布を販売する商売を始め、 その後にがりなど、 いろいろな資材を豆腐屋さんに売っていました。 父親は手先が器用なこともあって、 大豆を磨り潰す機械等を開発して地元の豆腐屋さんに販売しておりました。 小型の油揚げ包装機を開発したのをきっかけに全国に販売するようになりました。 その後も豆腐製造を省人化、 省力化する機械を立て続けに開発しました。 まだ豆腐屋さんがたくさんあった時代でしたから、 時流に乗ってお客様は全国に広がり、 売り上げも順調に伸びていきました。
急激な全国展開がもたらしたもの
同時に重大な問題も抱えていました。 社員がついていっていなかったのです。 一気に全国展開をしたので人手も足りず、 社員も育っていませんでした。 機械の多くを一社の外注に依存しており、 修理の知識も乏しいものでした。 豆腐屋さんとしては毎日スーパーに納めなければならないから今日壊れたものはすぐにでも直してほしいのに、 すぐに対応できる体制はありませんでした。 故障の多い機械もあってお客様からのクレームは多発する中で、 機械製造を外注していた会社が別会社を作ってうちの主力商品の改良型を展開し始めてしまい、 社員はそこに引き抜かれ、 わが社は厳しい状態に陥りました。
私が大学卒業と同時に東京から戻り、 会社に入ってみると内部体制はめちゃくちゃでした。 まず人がすぐ辞める。 ですから親戚をずいぶん入れて何とかしていたのです。 私が入ったときは、 私の従兄が営業を支えていたのですが、 社長 (父) とかなりもめていました。 社員たちも仕事をボイコットして、 お客さんからの修理依頼があっても行かないという状態でした。 社長の息子の入社も歓迎されてはおらず、 私はずっと疎外された存在でした。
なんとか手を尽くさなければならないと思い、 早朝から夜中までお客様のところを訪問したり、 修理したりしてみましたが、 そういうことを自分ひとりだけでやってもほとんど効果もなく、 会社は信用を失い、 私も妻も体調を崩して、 ただ悪化の一途をたどっていくだけでした。 そこへきて、 営業を支えていた従兄が急死してしまい、 業界の中でミナミ産業はつぶれるぞという噂がたちました。
28才で社長に就任
あるときに起きたトラブルの責任をとる形で、 父が別の従兄に社長を譲ることになりました。 しかし結局、 父は銀行との関係などで社長を譲らず、 社内はさらにもめました。 ついにその従兄から私は 「今のままでは会社はあかん。 お前が社長をやってくれ」 と言われ、 会長 (父) と社長 (私) と専務 (従兄) の合議制で進めて、 社内の足の引っ張り合いをまずなくす体制をつくることにしました。 社長としての最初の仕事は仕入れ値の洗い直しやお客様へのサービスの徹底でした。 すると一年目に赤字が黒字に転換しました。
ところが二年目に大きな問題が起きました。 大口のお客様がバブル崩壊のあおりを受けて他の事業への無理な投資が原因で破綻し、 同時にメインの仕事が一気に無くなったのです。 それを想定していなかったので急きょ、 機械を開発してみたりしたのですが、 完成度が低くてクレームが殺到するような状況でした。 専務が悪いとか会長が悪いとか、 また責任のなすりつけあいになって会社の雰囲気がますます悪くなっていきました。 会社はまた赤字に転落し、 従兄たちは見切りをつけ、 お得意様のバックアップをもらって別会社を作ってしまいました。 社員や仕入先も離れていき、 失墜した信用や風評で契約もいくつかキャンセルになって本当に厳しい状態に陥りました。 必死に踏ん張ろうと昼夜を問わず働きましたが、 この流れをとめることができませんでした。
「周りに迷惑をかける前に・・・」
あるとき、 上場しているスーパーが豆腐加工を含む大きな食品工場を作るということを知り、 必死の営業努力の結果、 その仕事を1億6000万円位で取ることができました。 先に機械を作らなければならないので、 エンジニアリングを総括する一部上場企業との契約書を持って銀行に融資のお願いに行きました。 間違いなく貸してもらえるだろうと思ったら、 銀行にはその意思はありませんでした。 理由は、 社内がもめていること。 お客様となる豆腐屋さん自体が減少しており将来性がないこと。 過去の成功体験にこだわって、 現状に見合わない新しい機械をどんどん作ろうとしていること等でした。 ―― 逆に廃業を勧められ、 悔しいけれど返す言葉がなかったです。 それでも受けた仕事は何とかしたいと思い、 仕入れ方法などを一から再検討してみた結果、 借入れに頼らずさらに1000万円ぐらい安く仕入れることができ、 その仕事を軌道に乗せることができました。
この成功によって少しずつ仕事がくるようになり、 ここで次の手と思い、 以前から私が暖めていた新しい発想の豆腐自動化の機械に着手しました。 新たな協力会社と開発を進めようやく構想がまとまった時点で、 父が独断で全く違う会社に機械製造を依頼したために信頼関係を築き開発に協力してくれた会社も離れていき、 結局製造を依頼した先ともトラブルが発生して訴訟問題になってしまいこの開発がストップしてしまいました。 このときこのトラブルを私が解決するかわりに、 父には完全に退いてもらい、 全面的に私が会社を見ることになりました。
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